行動なくして
実現なし
001.想い

裁判員裁判見直しの年に思うこと

今年は裁判員裁判が始まって3年。

制度開始時に明記されていた制度見直しの年にあたる。

先日、NHKスペシャル「木嶋被告 100日裁判」を観た感想を書きたい。

 

裁判員に選ばれた人は

「自分が人を裁いていいのか。自分にその資格があるのか」と

自問することから始まる。

前に江川紹子さんがネット上で発言していた、

「裁判員に死刑を言い渡す責任を負わせていいのか」という

言葉を思い出した。

 

映画「それでも僕はやっていない」の周防監督が番組ゲストとして

次のように話していた。

「人が人を裁くことを、社会全体が共有するのが裁判員裁判だ」

「人を裁くということは、市民にも職業裁判官にとっても重いことだ」 

「職業裁判官が、人を裁く重さと 改めて

向き合うことができるのが裁判員裁判だ」 

どれも重い言葉だ。

 

 

守秘義務と、評議が取材できないから、

裁判員裁判も、いつか検察審査会のように、

国民から遠い存在になってしまうかもしれない。

制度開始の時と比べると取材も激減している。

良く言えば制度が定着しているのだろう。

しかし、もしかしたら、

すでに国民から遠い存在になりつつあるのかもしれない。

裁判員裁判は、裁判員に選ばれた国民に、
一生忘れることのない体験を与える。

人を裁く経験をした人は、

その経験を墓場までもっていこうとする人もいるだろう。

しかし、人に話すことで、少しでも気が軽くなるという人もいるだろう。

守秘義務のあり方を見直したほうがいい。

守秘義務は必要だが、判決確定から何年か経ったら、

守秘義務を解除するということが必要ではないか。