誤解しているのは会長ではないか。 2014 年 1 月 30 日
NHK・籾井勝人会長の発言。
報道に出ていた籾井会長の記者会見の全文を読んだが、会長には、ニュースや番組を制作する記者やディレクター、編集マンやカメラマンなど「現場の人間」が萎縮することがないようにと、強くお願いしたい。NHKに限らず報道を信じたいと願うからこそ書かせていただく。
籾井会長は、NHKが公共放送なのか、国営放送なのか、よく分かっていないのではないか。「放送法を守る」と繰り返していたが、放送法のどこを守るのかという具体的な発言はなかった。会長は「海外向けの国際放送では政府見解をきちんと伝えていきたい」という趣旨のことを言っていて、そこは理解するが、国際放送についてNHKはホームページで以下のように書いている。
【日本放送協会は、放送法の定めるところにより、わが国を代表する国際放送機関としての自覚のもとに、外国人向けおよび邦人向け国際放送および協会国際衛星放送を通じて、諸外国のわが国に対する理解を深め、国際間の文化および経済交流の発展に資し、ひいては国際親善と人類の福祉に貢献するとともに、邦人に適切な報道および娯楽を提供する】
おそらく、「わが国を代表する国際放送機関としての自覚のもとに」とか、「諸外国のわが国に対する理解を深め」という辺りに力を入れたいのだろう。気持は理解する。
しかし、国際放送以前に、ホームページには「放送法と公共放送」という項で以下のように書かれている。
【NHKは、全国にあまねく放送を普及させ、豊かで良い番組による放送を行うことなどを目的として、放送法の規定により設立された法人です。いわゆる特殊法人とされていますが、NHKの行っている「公共放送」という仕事は、政府の仕事を代行しているわけではありません。「国営放送」でも、「半官半民」でもありません。放送法は、NHKがその使命を他者、特に政府からの干渉を受けることなく自主的に達成できるよう、基本事項を定めています】
私は、会長の慰安婦についての発言の内容をここで問題にしているのではない。また、特定秘密保護法案について、「まあ通っちゃったんで、言ってもしょうがないのではと思いますけど」とか、「あまりかっかすることはないと僕は思いますし」などと発言したことも、到底承服できないが敢えて問わない。申し上げたいことは、こうした会長個人の考えを、記者の質問に乗せられたと言うかもしれないが、会長個人の考えを軽々に公にして、現場を萎縮させないでほしいということだ。会長は会見冒頭、「職員に自分を『さん』づけで呼ぶようにお願いして、良いコミュニケーションのスタートになった」と言っているが、そんな気遣いなど軽く吹き飛ぶぐらい、発言はNHK内でも大きな衝撃を与えている。
私は、以下の記者との質疑が非常に気になっている。
記者「現場の制作報道で会長の意見と食い違う意見が出た場合、どう対応するのか」
籾井会長「最終的には会長が決めるわけですから。その了解なしに、現場で勝手に編集してそれが問題にであるということになった場合については、責任を取ります。そういう問題については、私の了解をとってもらわないと困る」
慰安婦については様々な意見があり、それをどのように報道するのかは元々非常に難しいテーマだが、会長発言によってさらに難しくなるだろう。秘密保護法も様々な意見があるが、会長発言は、特定秘密保護法に関連する取材をしている記者の頭から離れないだろう。報道機関のトップは「責任は私がとるから、自由にやりなさい」と現場に言える人が良い。現場が、トップの顔色をうかがっておとなしくなってしまったり、また、トップが喜びそうなことを言おうなどと下が考えるようになると、言論で勝負する報道機関にとっては致命的だ。
報道は基本的に自由であるべきだ。その自由の中で「公共性」という非常に難しくて大きな責任に、NHKの先人や現場の人たちは時に批判も浴びながら日々向き合ってきたのではないか。間違っても、NHKが、よくニュースなどで報じている近くの国の国営放送のような道を、NHK自らが辿ることのないようにしていただきたい。
会長は後日、全職員に文書で「視聴者の皆さんに誤解を招いてしまったことは申し訳ない。個人的な見解を放送に反映させることはありません」などと釈明したと報道されているが、誤解しているのは会長ではないか。果たして誤解ですむかどうか、公共放送という言葉にいま一度向き合っていただきたい。
新聞週間に考えること 2012 年 10 月 17 日
15日から「新聞週間」がはじまった。(http://www.pressnet.or.jp/about/shimbun_shukan/)どの新聞も今週のどこかで、新聞の役割、報道のありかたを検証する記事を書き、おそらく今年も大きなテーマは震災報道だろう。
新聞の果たしている役割はいまなお大きいと、私は思う。復興予算の流用問題の解明にも、一定の役割を果たしている。また、たとえば毎日新聞が、核燃サイクル政策推進のために専門家が、「秘密会議」をひらいていたことを報道し続けるなど、報道されなければ私たちが知ることのなかった事実も多く出ている。しかし、一方で、iPS細胞から作った心筋細胞を患者に移植したという森口氏の嘘にのっかってしまうなど、問題も事欠かない。政治報道について言わせてもらえば、消費税やTPPなど、国論を二分するような問題に全国紙が似たり寄ったりの社説を出し続けたり、民主自民公明の3党協議をなぜ、全国紙が揃いも揃って支持するのか、「社論はあるのか」と問いたくなるようなことが多い。消費増税に多くの新聞社が賛意を示しておきながら、新聞には軽減税率を適用してほしいと求める紙面に違和感を覚える人も少なくないだろう。
大手メディアがなによりも優位なのは、長年の歴史と、そして、役所や企業など、いたるところに記者クラブを組織して、優先的に情報にふれられることだ。それがいま、インターネットの普及によって、役所や企業も独自に情報を発信している。また、記者会見にフリーの記者が入れるようになりつつあるなど、情報が多様化している。そしてフリージャーナリストの活動も、ネットによって飛躍的な広がりを見せている。Twitterやブログ、facebookのおかげで、私たちは様々な論客の文章を、より簡単に目を通すことができ、新聞社の社説より数段、説得力のあるものも多い。また、ユーストリームなど、ネット中継、動画の進歩によって、生の情報、速報性でもネットが力を伸ばしつつある。多くの人が幅広い情報に触れられるようになってきたからこそ、大手メディアの報道は厳しく問われ、既得権だと批判されている。裏を返せばまだそれだけの影響力があるということだと思う。新聞をみもしないで「マスゴミ」などと批判する人よりも、様々な新聞に目を通したうえで批判する人の意見の方が大事だと私は思う。
いま、大手メディアに求められているのは謙虚さと独自性だ。いまに限った話ではない。私がメディアと関わるようになってからずっとそう思ってきた。謙虚さとは、自分たちが情報を得やすい立場にいるという自覚をもつこと。報道が誤っていると判断した時に謝罪すること。自分たちが「国民になにかを教えてやっているんだ」とかいう特権意識を解体する必要がある。私が記者をしていたときも、NHKを含めて大手メディアには特権意識をもった人が多く辟易した。誇りは必要かもしれないが驕りは自らの妨げとなるだけだ。
そして、独自性は、新聞社が10あれば10通りの社論を掲げることだ。公共性の御旗を立てるのは大事だが、その旗にかくれて自分たちの主張を決めなかったり、回りを様子見して似たような記事を並べているいままでのやり方では、国民はついてこないだろう。「大手メディアの書くことが正解とされた時代」から、「様々なメディア、情報の中から正解を選択する時代」に入っている。
私は、毎日様々な新聞に眼を通している。主要紙の社説もほぼ毎日読んでいる。 軽減税率が適用されようとされまいと新聞は読み続ける。だからこそ、目に見える変化を期待したい。
前原氏VS産経新聞から感じる懸念 2012 年 2 月 27 日
前原氏と産経新聞の対立は産経に分があり、前原氏は産経の会見参加を早く認めた方がいいという話は前に書いた。きょうは、この問題で私が感じる2つの懸念について書きたい。
政治家や役所の記者会見は、これまで記者クラブに加盟するメディアしか定期的な取材ができなかったが、最近オープン化が進みつつある。このためネットメディアやフリージャーナリストが、活動の場を飛躍的に広げている。そして政治家や役所も、ホームページやブログなどを通じて自ら積極的に発信している。
さてそうなると、取材のオープン化とメディアの多様化を理由に、公の立場にある人や組織が、メディアを「堂々と選別」し始めるのではないかという1つ目の懸念を感じる。実は、小沢一郎氏が一時期、「ネットメディアの方が新聞やテレビよりも正確に報道してくれる」と言っていたのを何かで聞いたときに、ふとこの懸念が頭に浮かんだ。今回、前原氏が産経を排除したことも、政治家がメディアを「堂々と選別」する潮流にならないよう決着してほしいと願っている。前原氏は与党政調会長という職責の重さから、小沢氏は政界への影響力から、2人とも広く取材に応じるべき立場にいると私は思う。
さて、もう1つの懸念は、政治家や役所がメディアを選別したときに、今のメディアが一丸となって戦えるかどうかである。今回の問題では自民党の世耕氏が、産経抜きの会見を容認した他社を「メディアの自殺行為」と批判している。http://blogos.com/article/32679/?axis=t:6311
前原氏と産経の対立は、産経以外の新聞・通信社も報道したし、テレビも何社か報道したようだ。他社が会見の場で抗議したという報道もあった。メディア各社は、やるべきことを一定程度したと私は思う。
しかし、もし会見から退席させられたのが産経ではなくネットメディアやフリージャーナリストだったら、新聞やテレビは無視するのではないか。ひょっとしたら、その場で抗議すらしないのではないか。ネットメディアやフリーと大手新聞・テレビの冷えきった関係をみると、新聞やテレビが、ネットメディアやフリーを擁護する姿がどうしても想像できない。
メディアの多様化と取材現場のオープン化が進み、俗にいう「記者団」の質が変わりつつある今こそ、メディアは報道の目的を改めて考えるべきだ。一番大切な視聴者や読者、つまり国民のことを考えれば、新聞・テレビとネットメディア・フリーがいがみ合っていても、いいことは1つもない。
これからも、メディアと公人の対立はたびたび起こるが、メディアは取材先に萎縮したり、他人事だと思ってうやむやにすることなく、国民のためになる行動を見せて欲しい。
最後に、「堂々と選別」にわざわざカッコをつけたのは、政治家や役所が暗に特定のメディアを敬遠することは昔も今のあるからだ。また、いくら公人でも、アポも取らずに本人はおろか家族までに迷惑をかけるような、非常識な取材につき合う義務はないことも付言しておきたい。
メディア~震災で感じたこと~ 2011 年 10 月 28 日
3月11日の震災で
Twitterが大活躍したことは前にも書いた。
震災直後、Twitterは
家族や友人の安否確認や、助けを求める人、
それに必要な物資を求める切実な声であふれた。
このとき
テレビ、新聞も安否情報などに多くの時間を割いた。
読者、視聴者が求めている情報は何かということに
各メディアも集中していた。
日々のニュースは、
無数の出来事の中から報道各社が
「何がニュースなのか」を考えて、
トップニュースや紙面を決める。
本来読者、視聴者の利益を最優先に
ニュースを考えるべきだが、
どうしても他社の動向を気にする横並びの体質が
テレビにも新聞にもある。
自社の組織益を気にするあまり、
読者や視聴者のためという考えがおろそかになっている。
しかし震災直後は、
各メディアが被災者のための報道をしていた。
3月11日の大震災は、
メディア各社が「ニュースは読者、視聴者のために」という
原点に帰る機会になったのではないかと思っている。
震災から7カ月以上が経って、
震災直後の経験を
メディア各社がいかしているかというと、
また元に戻ったように感じてしまうのが少し残念だ。
メディアの多様化 2011 年 10 月 27 日
かつて新聞は
「速報性でテレビには勝てない」と言われた。
インターネットの普及とともに新聞各社は再び
速報性でテレビに対抗しようとした。
私はこの動きは間違っていると思っている。
新聞は主張、解説などで、速報性の求められるテレビとは違った
掘り下げた報道をするべきだと思っていた。
しかし新聞はいま、
主張や解説でも存在感が薄くなっている。
インターネットを媒体とするフリージャーナリストや識者が
新聞の社説より深い論陣を張るようになったからだ。
例えば「BLOGOS(ブロゴス)」というサイトがある。
このサイトは面白い。
日々のニュースについて
様々な識者の主張を集めている。
新聞社の「社説」より説得力のある文章も多い。
新聞の社説は毎日書き続けないといけないが
識者のブログには時間的なノルマがない。
専門家が時間をかけて考え、発信している。
読者は、色々な主張を読んで
自分の考えの一助とすればいい。
自分に合ったものを選べばいい。
「BLOGOS(ブロゴス)」の読者は
まだ200万人だというが、報道は
「読者が取捨選択する時代」に
入りはじめているのかもしれない。
さて、新聞やテレビはどうなるのか。
この続きを書くには、
私自身も、もう少し考える時間が必要だ。