震災報道に思うこと   2011 年 4 月 26 日

震災報道をみていると、報道の難しさを改めて感じる。

3月11日の地震発生からしばらくは、「どこでどれだけの被害が出ている」、「被災者はこんなに苦しんでいる」という報道一色だった。被災者にマイクを突き付けることが無神経だと批判された。また、「悲惨さを伝える報道ばかりだと精神的にダメージをうける人が出る」という声もあった。

そして、復興へむけた明るい話題が増えれば、今なお大変な避難生活を続けている人、壊れた自宅の片付けに途方に暮れている人はどう感じるのか。

被災地報道が偏っているという批判もある。報道されない被災地が多いという声も多い。きょう、宮城県の消防課の人と電話で話す機会があったが、「仕方がないのかもしれないが今の報道は原発事故が中心だ」と話していた。 

このブログでも再三書いてきたが、メディアの横並び的な体質が今回の震災報道にも大きな影響を及ぼしていると思う。まず、震災報道の割合である。災害報道を公共放送の使命と位置付けるNHKはかなりの間、特別編成で震災報道を続けてきた。しかし、視聴率の高い時間帯は通常体制に戻りつつある。震災報道なら各社それぞれ、「うちは復興の動きを徹底的に伝える」とか、逆に、「被災地の悲惨さを徹底的に伝える」というスタンスがあるべきだ。「他社が通常の放送体制に戻っても、うちだけは半年間は震災特別態勢でいく」という方針の社もああるべきだ。視聴者や読者の声に敏感であることは必要だ。しかし安易な横並び報道に走ったり、批判の出にくい「無難」な放送にとどまったら、視聴者や読者の気持ちは離れていく。普段から他社の様子をうかがい横並びの報道に終始しているから、どこの放送局、新聞社も金太郎飴のような報道になっているのではないか。視聴者や読者に、「どこも同じニュースばかりだ」と失望されているのではないか。大手メディアは何社もあるが、今一度、自社の存在意義を見つめ直し、独自の視点で震災報道を展開してほしい。今回の震災はそれだけ大きな出来事だと思う。個人的には、まだまだ被災地に目をむけて欲しい。困っている人たちにカメラを向けてほしい。政治の世界は、本格復興だとか政局的な話が増えつつあるが、まだ目の前の生活に困っている人がたくさんいる。私はインターネットの一部に氾濫しているような、大手メディアの存在価値すら認めないような批判をする気は全くない。メディアを信じている。

メディア批判   2011 年 2 月 28 日

「どうして人のあげ足をとるような報道ばかりするのか」

政治の迷走の責任の一端がメディアにあるという批判を

これまで数えきれないほど聞いてきた。

また、最近、

「報道の自由といってもなんでも許されるのか」と言われた。

これは、ニュージーランドの地震で行方が分からなくなっている

日本人の写真を、メディアが家族の同意なしに

電話やインターネットで同級生などに接触して

入手したことに対する批判である。

 

どちらも耳が痛い話だ。

特に事件や事故で亡くなった人や行方が分からなくなった人の

遺族や関係者に接触する取材は、私自身とても辛かった。でも

やらねばならないこととして葛藤しながら取材をしてきた。

 

視聴者や読者に伝えるべきことだと感じたら、嫌なことでもやる。

しかし、他社との競争しか見えずに、

踏み込むべきでないところに踏み込んだり、

些細なことを大げさに報道している現状がある。

私はインターネット上にあふれているように

既存の大手メディアや記者クラブを全否定する気はないが、

経験者として、

必要な批判や提言をしたいと日々考えを巡らせている。

世論調査   2011 年 2 月 20 日

メディア各社が行う世論調査が限界にきていると感じる。

最近の新聞の世論調査は、コンピューターで無作為に発生させた電話番号に電話をかけて、有権者のいる世帯にかかれば調査協力を依頼し、回答を集める。NHKにいた時は対面聞き取り方式もあったが、主流は電話だ。

しかし、今はほとんどの人が携帯電話を持っている。電話に出る人は極端に減っている。田中秀征さんは、「家の電話に出て世論調査に答える人は退職者が多い」と言っていた。そうかもしれないなと思う。新聞の世論調査とインターネットの世論調査の結果が異なるという指摘はもう何年も言われ続けている。インターネットは、自由な発信の場であり、既存の大手メディアに疑問を持つ人が多い。年代でいえば若い人が多いという指摘もある。

こういったことを総合すると、新聞の世論調査は、世論の一部しかとらえていないのではないかという疑問が膨らむ。NHKにいた時、特に選挙で街頭アンケートを何度もやった。街頭アンケートは、数を集めればそれだけ統計的な価値が高まる。夜遅くまで、1人でも多くの方に答えてもらおうと粘った。足を棒にして集めた街頭アンケートが、NHK本社が行う世論調査と一致しない。でも、選挙の結果をみると街頭アンケートの方が結果に近かったことが何度もあった。

広い世論を反映できない調査が世論調査と言えるのか。メディアは世論調査の方法を考えなおす時期に来ていると思う。

おはようございます。
今朝の産経新聞14面に、あっ!と思う記事があったので紹介したい。   
   
(産経iphon版より引用)
対中デモ報じず
「メディアに関わる今年の話題の1つに、10月2日、東京・渋谷で約2700人(警察発表)が参加して行われた大規模な対中抗議デモを、ロイターなどの海外メディアが報じ、日本のマスコミが一切報道しなかったことがある。中国国内での対日デモは報じるマスコミが、国内デモを報じなかったことに対し、批判の声が出た。報じたロイター映像部門の東京責任者オリビエ・ファーブル氏は『私たちは政治信条問わず、左右両翼を取材する』と話す。『われわれには、人種隔離と闘った南アフリカのネルソン・マンデラ氏を、かつてテロリストと呼んだ苦い教訓がある。報道は政治信条でレッテル貼りをすべきではない』 中東プレステレビのマイケル・ペン氏も『100人なら運動家だけだがこれだけ大規模なデモは新しい動きだ』とし、『日本は政治信条が取材を妨げた民主主義にはメディアの中立な取材が必要だ』と語る。  デモは全国7都市で行われ、2度目以降は本紙も含めマスコミも報じたが…以下略」   
   
先日上京した時に、渋谷駅前である集会を見かけた。その集会も、国内の対中デモを報じなかったメディアを批判していたので、そうした動きがあることは知ってはいた。
しかしこの記事で最も鮮烈なのは、ロイター映像部門の東京責任者オリビエ・ファーブル氏の『報道は政治信条でレッテル貼りをすべきではない』という発言である。その前段に『われわれには、人種隔離と闘った南アフリカのネルソン・マンデラ氏を、かつてテロリストと呼んだ苦い教訓がある』 とまで話している。
日本の政治や世論に対する先入観が少ない海外メディアに、新たな国内の動きを先行して報じられ、後追いすることになったことを大手メディアは反省してほしい。先入観や他社との横並び・様子見の体質がこの結果を招いたと思う。私はかねてから、メディアが10社あるなら10通りの論調をするべきだと訴えてきたが、もう一度強く訴えたい。
  
例えば、先日閣議決定された「防衛計画大綱」について、朝日、毎日、読売、日経、そして信濃毎日の社説を読んだ。毎日が掲載した全国紙の社説比較も目を通した。「防衛計画大綱」に対して、明確に批判のスタンスを打ち出したのは信濃毎日だった。信濃毎日の徹底した論調に比べれば、他紙はかすんで見える。信濃毎日は日曜の1面コラム「考」でも2回にわたり、防衛計画大綱と安全保障の問題を取り上げている。信濃毎日の記事に賛否はある。それは読者が取捨選択をすればいいことだ。私は、信濃毎日の徹底ぶりを興味深く読ませていただいている。

事件報道のらせん   2010 年 10 月 6 日

こんばんは。先日「検察、しっかり!」を書きましたが、

その後、特捜検事の証拠改ざん容疑事件は、上司(特等部長と副部長)の関与、

つまり大阪地検特捜部という組織がどのように関わっていたのかが焦点になっています。

報道各社がどのようなスタンスで報道を続けていくのかに私は注目しています。

 

ところで、ちょっと前まで、報道各社は厚労省に復職した

村木さんの検証報道記事を出していました。

無罪判決をうけた村木さんに対する報道が、逮捕当初から適切だったのかどうかを

各社が自社の報道を振り返るものです。

足利事件の再審で無罪判決が出た時も

報道機関は、足利事件の発生当初の取材を検証・反省する記事を組んでいます。

これは、事件当時、ほぼ有罪を印象付ける報道をされた人が無罪になったのですから

当然必要なものです。

しかし、この検証・反省記事は、紙面の大きさや放送時間の長さの割に

その後の報道に生かされません。

この手の検証記事は、「捜査当局(警察・検察)の取材に頼りすぎた」という反省が

かなりの確率でなされるのですが、

そもそも、捜査情報は捜査当局からしか取りようがないので

結果として同じ過ちが繰り返される。

昔の私も含めて、捜査当局を取材する人間はとにかく捜査情報にこだわり、

裁判で明らかになることを事前に報道します。

この報道の仕方は時に厳しく批判されますが、決してなくなることはありません。

よく、捜査情報にたよった報道は捜査当局のリークだと批判されますが

捜査当局だっていずれ裁判で明らかになることなので嘘はつきません。

そして、大きな事件があったときにその背景が

裁判までまったく報道されないということも異様な社会だと思います。

現状だと、捜査当局の捜査が誤れば報道も誤りとなる。

それはどんなに容疑者の弁護士や、被害者の関係者の取材を積み重ねても

容疑者を拘束して取り調べている捜査機関の情報が

報道にとって大きなウエイトを占めるからです。

捜査当局に依存した事件報道のらせんはこうして続くのです。

 現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん容疑事件も

検察の捜査情報に基づく報道が連日続いています。

 

しかし、この事件はこれまでにない展開を見せています。

それは、容疑者(特捜部長・副部長)の接見を裁判所が認めたため

報道各社が拘置所で容疑者に直接取材をして、その内容が報道されている点です。

通常、逮捕された容疑者が起訴されるまでの20日あまりの間に

弁護士以外の人との接見が認められることはほとんどありません。

私は今回がかなりまれなケースだと思っています。

 

しかし、捜査当局の人間が容疑者となった事件で、裁判所が容疑者の扱い慎重にする。

これまでの捜査当局と容疑者、裁判所、そして事件報道のあり方に

一石を投じたというのは何ともいえない皮肉な結果となっています。

取り調べの可視化の議論が再燃していますが、

拘束された容疑者の接見も

今後の刑事事件捜査とその報道を考える大きなテーマの一つだと思います。 

井出ようせいブログシリーズ 被災地をみて