NHKへの想いと私の決断 2010 年 10 月 5 日
NHKは、皆さんからみると国営放送かもしれません。
しかし、NHKは国営ではなくて公共放送です。
税金ではなくて、受信料で支えられています。
それが、実質は税金と同じだという指摘も相当あります。
ただ、NHKには、いいところがあります。
それはNHKスペシャルや土曜ドラマなどで、
他にやれないことを放送できる力、国・政府と対峙する力、映画を超える力をもっています。
私がNHKを辞めたのは自分の夢のためです。
その一方で巨大組織に対するジレンマが、うまく言葉にできないけどあります。
私はNHKと決別して自分の道を歩むことを選択しました。
しかし、NHKの良さを理解しているので
NHKには公共放送としての役割を期待している。
それは、国営放送と言われないように公共放送の視点、
民意を反映するのがNHKの存在意義だと強く言いたい。
NHKが安易な道を選べば国営放送に過ぎない。
目指すべきは、民意を掘り下げること、公共放送にしかできない視点を持つことしかない。
今まで黙っていましたが、私が自分の道を選んだ背景はこのブログが真実です。
自由な報道 下 2010 年 10 月 1 日
こんばんは。もう10月ですね。前に、「自由な報道」を、上・中と書きました。
書き尽くしてしまった感がありましたが、何としても下を書かねばと思っていてようやく書きます。
前に『各社が特色を出すカギは、現場にいる記者の感性と云々』と書きました。
「記者の感性」とはなにか。私はそのひとつに「先入観をもたない」ことをあげます。
「これはこういうことだろう」と物事を決めてかかると、それ以外の情報が拾えなくなる。
質問をされる方だって、記者が聞かないことに親切にこたえる人はいない。
さらに大切だと思うのは、取材相手の人物像を相手の立場や評判から決めてかかると
相手から本音を引き出すことは難しい。
この、先入観をもたないということは「疑ってかかれ」ということでは決してありません。
私は、記者時代に尊敬する上司が口癖のように言っていた言葉を今も大切にしています。
それは「人を信用すること」・「騙すより騙される方がいい」ということです。
実際の取材はきれいごとではすまないのですが、
上司のおかげで私は
取材相手にカマをかけたり裏切ることはゼロではありませんがなかったと思っています。
報道各社の組織レベルにもこの話がはまります。
各社が独自の論調をする・自由な報道をするうえで先入観は大きな障害です。
ましてや前に再三のべたように、ある社が他社の論調を気にしてそれを先入観としてしまったら
自由な報道を放棄することにほかならない。
先入観をもたないことは、読者、視聴者がメディアをみるときにも当てはまる思います。
メディアについては多くの批判もありますが、高い信用があることも事実です。
読者や視聴者が、自身の考えでメディアを取捨選択することがメディアの発展への一番の近道です。
きょう、こんなことを書いたのは、記者をやめて選挙を戦い、ゆっくりした時間をもった今、
先入観を持たないことの大切さを痛感しているからです。
政治は人と人のつながりが最も大切な仕事です。
そして、関係する人が多いため色々な話が飛び交います。
選挙戦は勝利を目指して必死にやったわけですが、
ひとつのことに集中していると回りが見えにくくなります。
今頃になって、この夏の戦いで自分がいかに回りが見えていなかったのかが
少しずつですがわかってきました。
先入観をもたないことは簡単ではありませんが、
記者という仕事から私なりに得た教訓なので今後も大切にしていきます。
〈自由な報道 完〉
自由な報道 中 2010 年 9 月 5 日
前回、「自由な報道 上」では
『各社が特色を出すカギは現場にいる記者の感性と、それを信用して的確な指示が出せる上司。
しかし、特に大手の場合、組織が大きすぎて優等生的な人間が重用される』と書きました。
極端に書いたのですこしわかりにくかったかもしれません。
もう少しひいた言いかたをすると、
現場の記者よりも、組織の理論・力が強すぎるということです。
そして問題なのは、前回書いたように、各社がライバル他社の動向を気にしすぎるため
報道各社が組織としての色、とくに責任を失いつつあること。
組織としての特色・責任がなければどんなに意欲的な人間が現場にいても
その報道はあたり障りないものになってしまう。
だれも責任をとるものがいなければますます他社との横並びになり、
そこそこのところで落ち着いてしまう。
さらにそれが進むと、現場の記者に必要な感性を教える人間もいなくなってしまう。
報道というのは様々な問題を社会に発信する・提起するのが役目です。
「報道の自由」ということで普通の人が入れないところに入れるなど
報道機関にだけ許されていることもたくさんあります。
「報道の自由」によってさまざまな取材を認められていながら、
他社の報道を気にするあまり、「自由な報道」を自ら放棄している。
私は、時間がある限り新聞は複数見るようにしています。
最近はお金がないのであまり買いませんが、
前は暇があれば、コンビニで自宅の購読紙と別の新聞も買っていました。
報道各社には他社との横並びの意識を捨てて、
責任ある独自の論調を打ち立てることを期待しています。
そして、報道を観る・読む側の皆さんには
優等生的な論調をなんとなくけ入れるのではなく
自分の考えにぴったり合う報道機関を選んでほしいと思います。
自由な報道 上 2010 年 9 月 2 日
「自由な報道 序」を書いてから日がたってしまいました。
『報道機関が10社あったら10通りの論調があるべきだ』という私の考えを引き続き話します。
発売中の文藝春秋9月特別号の491ページ「新聞エンマ帖」に次のような記載を見つけたので引用します。
『購読層を絞り込むことができず、幅広い不特定多数の国民を読者に想定している新聞が
優等生的なタテマエ論を展開するのはいつものことだ。・・・(以下略)』
新聞エンマ帖の筆者がどなたなのか、記載が見当たらないのでわかりません。
しかし、表現やとらえ方は私と違いますが、「多くの新聞が同じような論調をしている」
ということを端的に指摘しています。
私は取材を経験した者の見方として、なぜ国内の多くの報道機関が
同じ出来事を同じような論調で扱うかについて話します。
「取材に正解はない」。これは私が8年という短い記者経験でしたが、
その中で痛切に感じた持論です。
数えきれない交通事故や裁判をみても、原因や状況などをみると、
同じ事故・裁判というのはありません。
選挙だって過去の選挙と全く事情が同じという選挙はありません。
原理原則を言うと、取材は一回一回が勝負で、
その報道の仕方は、テレビや通信社には速報性が求められ、
新聞はネットで速報しつつ、翌朝刊には掘り下げた記事が求められます。
しかし、私が残念だと思うしやりきれない気持ちになるのは、
報道機関の中で、取材の正解を求める傾向が強すぎることです。
たとえば、私が、ある日の午後あった事件をその日の夜のニュースに向けて原稿を書きます。
そうするとその原稿を書いているうちに通信社が速報を配信します。
私自身は、自分の原稿に追われて通信社の記事をみる暇はないのですが、
大きな事件になればなるほど上司や幹部の眼には、通信社の原稿が先に目にとまります。
そうすると、上司との信頼関係によるのですが、私があまり信用されていない場合、または記事がすごく難しいときには、
知らず知らずのうちに通信社の記事にとらわれるようになります。
これは新聞社も同じです。新聞記者が明日の朝刊にむけて必死にパソコンをたたいているときに、
NHKのニュースが18時か19時に流れます。そうすると新聞社の上司には
NHKのニュースが刷り込まれると同時に、記者に「原稿を早く出せ」という話になります。
記事というものは多くの人に読まれるので、独りよがりになっては理解が得られません。
だから、報道では原稿を書く記者とそれをチェックするデスクが必ず存在します。
しかし、ライバル他社の報道にひっぱられるようでは、
そもそも、その報道機関の存在意義はないというのが私の考えです。
各社とも大きな事件や政治の動きは必ず取材をするので、
現場の記者が見ているものは各社同じです。
ですから事実関係は一つなのですが、
そのとらえ方、掘り下げ方には各社特色を出してほしい。
各社が特色を出すカギは、現場にいる記者の感性と
それを信用して的確な指示が出せる上司です。
報道機関という仕事は、与えられたことをやっていればいいという感覚では
絶対にできない仕事です。
しかし、さまざまな事情から事なかれ主義の会社員に陥っている人も多いです。
それは、個人的な事情もありますが、
特に大手の場合、組織が大きすぎて優等生的な人間が重用される。
そして、純粋な気持ちで入社した記者は、報道の世界に打ちのめされ、悩みながら
だんだん報道業界にそまって行きます。
このテーマ、話が長くなりそうなので、「自由な報道 中」に続きます。
次回は現場記者の悩みと、
報道機関が高らかにうたう公共性についてお話しさせていただきます。
自由な報道 序 2010 年 8 月 19 日
「選挙を考える」連載で選挙報道について書いていたら、
報道についての持論を話したくなったので再びパソコンの前にいます。
日本には新聞とテレビ、そして通信社など、かなりの数の報道機関があります。
県庁所在地にある県庁記者クラブや、警察の記者クラブには必ず10社以上が加盟しています。
私は記者をしていたときも今も、報道各社はもっと自由に論調するべきだと考えています。
10社の報道機関があったら10通りの論調があっていい。
あとは、報道を読む人、みる人が選択すればいい。
報道する側にとって、
日々起こっている無数の出来事から「何がニュースか」を取捨選択することは社の命運を握るセンスです。
そしてそのセンスは、最前線の現場にいる記者が担っている。
このセンスの大切さについて書こうと思うのですが、
ちょっと話が重くなりそうなのでしばらく時間をいただき、構成を練ったうえで書かせていただきます。