捜索の進展を祈る   2014 年 9 月 28 日

御嶽山の噴火から一夜明け、山のふもとの王滝村、木曽町の災害対策本部を訪ねた。4人が亡くなり、27人が心肺停止、数十人が大けがと報じられている。亡くなられた方のご冥福と、被災された人へ心からお見舞い申し上げるとともに、捜索の進展を願ってやまない。

 

王滝村の高台にある公園からは、噴煙を上げ続ける御嶽山がはっきりと見えた。

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災害対策本部となっている役場や、登山者の家族が待機している公民館は、多くのマスコミや車が目についたが、静かだった。皆捜索を見守るしかない状況だった。

 

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木曽町の町長や県の地方事務所長、王滝村の村長の話を総合すると、火口は山頂の長野県側、「王滝頂上」西側ではないかとのこと。御嶽山はロープウェイや登山道が整備されているから、3000メートル越えの山としては登りやすい。また、信仰の山としても知られている。きのうは、紅葉もきれいで大勢の登山客がいたとのこと。登山者カードを提出していない登山客もいるとみられ、被災した人の安否が全て確認されるまで、まだまだ時間がかかりそうとのこと。

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火山灰は風にのって開田高原の方にいき、その先の山梨や野辺山に達しているもようとのこと。開田高原の特産白菜をはじめ、各地で農業被害が出ている。

 

時折、ヘリの大きな音や救急車のサイレンが鳴り響き、その度に祈るような思いだった。山頂に向かって手を合わせて、被災者の無事と捜索の安全を祈って帰路についた。

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帰りの車で、「きょうは捜索を中断した」とニュースでやっていたが、明日以降もなんとか頑張っていただきたい。登山者の安否確認、そして山頂やその周辺が落ち着きを取り戻すには相当の時間がかかりそうだ。政府をあげて捜索、その後の復旧に取り組んでいただきたい。

広島にいって   2014 年 9 月 12 日


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 広島市の土砂災害現場を見にいってきた。山の斜面の住宅地で、沢の近くが大きな被害にあったという。現場を遠くから見ると、被害が大きかったところとそうでないところとで地形的な違いは見られない。帰りの山陽新幹線の車窓から、倉敷市などでも同じような地形に広がっている住宅地が見られる。「なぜあの場所だけ」という思いが残る。

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今朝の読売新聞に、広島県が国に対して、土砂災害防止法に基づく「特別警戒区域」の指定基準を見直すよう要請することにしたという記事があった。現行の国の基準を遥かに超える広い地域で甚大な被害が出たからだという。特別警戒地域に指定されると、その地域に住宅を建てる時は補強が義務づけられ、逆に移転する際には補助金がでるという。国のこうした仕組みは住民の安全を確保する上で大切だと思う。しかし、過去の災害の経験や普段の雨天時の状況など、地域地域にしかわからない事情というものがあり、そうした地域の勘ともいうべき叡智が、災害を軽減、未然に防いでいくために重要だと思う。全国的な基準に加え、地域の叡智を反映した細やかな対策基準作り、地域主導の対策が日本全体の防災力、減災力の向上につながると思う。

きょうも被災現場では復旧作業が続けられ、ボランティアの姿もみかけた。市役所の説明によると義援金は17億円集まっているという。

避難所になっている学校の体育館にも行ってみた。日中だったのでほとんど人はいなかったが、体育館のステージ前に積まれた、即席の食料品をはじめ、不便な生活を感じさせるものが多かった。

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 まだ一人の方が見つかっていないとのことだが、一日も早く見つかることと、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたい。被災された方の生活と、地域が早く平穏を取り戻すことを願ってやまない。

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まず栄村   2013 年 7 月 8 日

参院選の初日、県庁で立候補の届け出を終えたすみけい子候補と私は、すぐに栄村にむかった。すみ候補は、栄村のことを知っていた。東日本大震災の翌日、地震で大きな被害を受けたが、報道が少なかったことを覚えていた。だから行きたいと言った。


私にとって、栄村は、初めてボランティアにいった、忘れることのできない場所だ。村の中の道も分かる。震災から2年と少し、改めて住民の声を聞いてこようということになった。

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私がボランティアにいった集落は、村の中でもかなり奥で、一度、新潟県に入らないと行けない。取材でついてきたキャスターが「ここは新潟県だから選挙運動はダメです」とわざわざ言いにきた。遠かろうと、人が少なかろうと、行く意味がある場所には行く!



意地みたいな思いで午後になってようやく着いた栄村には、新しい家がたくさんたっていた。公営住宅もあった。ただ、裏を返せばそれだけの家が壊れたのである。震災のあと、私がやったボランティアは雪かきと壊れた家の掃除だった。震災直後は、雪が深すぎて被害の大きさを確認することができなかったが、ようやくイメージできた。



更地も多かった。家の再建が始まったばかりの人もいれば、再建を諦めて村を出て行く決断をした人も多かったので、更地が増えたという。私がボランティアでおじゃました数軒のなかの一軒は、見あたらなかった。



途中なんどか行き止まりにぶつかり、遊説は苦労した。震災からの復興工事が、いまも村のあちこちで行われている。



すみけい子候補は、復興予算が被災地と関係のないところに使われている政治を正すと訴えた。私は、ボランティアのときに、自分が逆に励まされたので、そのお礼と、私にできることはなんでもするから、どんどん私を使ってほしいと訴えた。



工事の手をとめて拍手してくれる人。ワザワザ家から出てきてくれる人、多くの住民が私たちの話をきき、また、思いを伝えてくれた。

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実は、栄村に行く前に、飯山駅にも行った。新幹線の新駅ができるので、地元の期待と不安をききたかった。たまたま飯山線を待っていた役場の人を捕まえて、いろいろ聞くことができた。地元への利益誘導はいらないが、問題や課題を国につなぐ橋渡し役になってほしいと言われた。今回の選挙は、単に投票の呼びかけだけでなく、行くことに意味のある場所に選挙カーを走らせてみたい。

 

きのう(13日)、震災復興特別委員会で初めて質問に立った。

(6月13日 衆議院 震災復興特別委員会より)

 

被災地にはこれまで何度かいったが、普段、担当の委員会が文部科学と選挙制度改革なので、復興についてまとまった質問をするのは、じつはきのうが初めてだった。6月3日に、震災復興特別委員会による被災地視察に参加させてもらったので、質問が実現した。

 

震災復興特別委員会は、委員長の選任など、形式的なもの除いた議論は、きのうを含めて、今年7回開かれている。これを多いとみるか少ないと見るかは人それぞれだが、課題が多種多様、山積していることを考えれば少ないのではないかというのが、私の感想だ。

1番の問題は、福島を中心とした原発事故災害からの再生と震災復興を、すべてひとつの委員会でやっていることではないかと思う。福島の原発事故からの再生でもっとも大きな問題は、避難している人たちが福島に戻ることができるかどうかという問題だろう。政府は、「福島に戻りたい」という住民の声があるから、福島に戻ることを前提とした施策を進めている。しかし、「戻ることはできない」と考えている人も多いという議論も、この委員会で過去にされている。5月8日の委員会で発言した、南相馬市立病院の及川副院長は、「原発から20キロ30キロ圏内を本当に復興させるかどうかを、政府・国会にお聞きしたい」と、その判断を政府に求めている。また、原発事故の影響の少ない被災地の課題は、住環境の再建、堤防などの安全対策、新しい街づくり、用地取得の問題、議論になっている課題は非常に多い。

 

(震災復興特別委員会の議事録、私の質問原稿など)

 

それぞれの課題の議論を深め、解決のスピードを上げるためには、原発事故災害に関することと、津波からの復興を目指す地域とで、特別委員会を1つから2つに増やして議論を進めるべきだと思う。いま、根本匠復興大臣が、復興大臣と福島原発事故再生総括担当大臣を兼務している。根本大臣は非常に精力的な取り組みをして頂いているが、大臣も2人にして、2つのエンジンで進めればよいのではないか。

例えば、5月8日の参考人招致。この日は、福島、宮城、岩手から11人が、参考人として現場の声を訴えた。しかし、この委員会が被災地から参考人を呼んだのは、この半年間、この1度だけだ。1人あたりの発言時間は10分程度だったと思う。また、6月3日には被災地の視察に私も参加したが、スケジュールがタイトで、1カ所当たりの滞在時間が短すぎる。現地の声を十分に聞くことができないというのが実感だった。

きのうは視察の報告もあって、宮城の案内役をしてくれた自民党の伊藤信太郎議員は報告で、「被災地の方に委員会に来ていただき、話を伺う、我々が被災地に足を運び、被災地の姿を見て声を聴く、それを必要な委員会で議論して必要な施策を講じていく。これを何度も何度も繰り返さなくてはなりません」と結んでいる。しかし、実態は伊藤議員の言葉通りではない。

(6月3日宮城県名取市 視察で状況を訴える若手農家のみなさん。右から2人目が今野さん)

 

5月8日にきていただいた参考人の中に、宮城県名取市で農業をやっている今野裕章さんという人がいた。今野さんは、津波で農業機械を失った農家のために、市町村が農業機械を買って農家にリースする事業について、改善を求めた。詳しいことは私の質問をみていただききたいが、要は、リースを受けられる農家の要件を見直してほしいということだった。その後6月の視察でも、私たちは今野さんに名取市で会って、同じことを言われた。私は、視察した議員が口々に「放置してはいけない問題だ」と話していたのをその場で聞いていたが、その後、この問題を調べた議員はいたのだろうか。この問題を質問で取り上げるために、名取市と今野さんに電話をしてさらに状況を聴いた。他の議員と質問が重なるだろうと思っていたが、そうはならなかった。

視察や参考人招致が全てではない。個々の議員ももちろん、それぞれが被災地に入り、問題提起を繰り返している。しかし、委員会として視察をする、被災者の話を聞くということは、問題を共有するという大きな意義がある。

多くの課題、問題提起はされているが、解決のための一歩に踏み込んでいないのではないか。いまの国会は6月26日に閉会する。震災復興特別委員会は、事実上、きのうが今国会の最終回だろう。多種多様な課題に対して、国会のマンパワーが、体制が弱いのではないか。震災後、多くの国会議員が被災地に何度も通い、本当にすばらしいと思う地道な活動を続けている議員も多い。多くの国会議員が震災復興について質問や発言する時は、そうした心に秘めた思いをもっている。だからこそ、そうした熱い思いをもった議員が議論できる場をもっと増やす、原発事故災害と津波復興とで特別委員会を2つにすれば、課題への議論を深めて、解決のスピードをアップができるのではないか。

安倍総理が繰り返して口にする「アベノミクス」、「3本目の矢が効果があるかどうか」も大事だが、復興は今も大きな大きな課題だ。そうした認識は皆が持っているが、認識をしているならば、マンパワーを増やすべきである。復興が大事という意識はあるが、体制が薄い。

きのう、議論の体制を拡充するべきだと質問した私に、根本大臣は、「いろんな形があると思う。どういう形でも総合的に動かさないといけない。復興庁を中心に、復興を加速するために引き続き頑張りたい」とつれなかったが、真剣に検討すべき問題だと私は思う。

 

 

追伸

きのうの私の質問は「衆議院TV」からご覧頂けます↓

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=42879&media_type=fp

被災地のこと   2013 年 4 月 30 日

もう1ヶ月近く前のことになるが、被災地に行ってきた。被災地にいくのは約2年ぶり。震災のあった年の5月にいった以来だ。前回は絶望に近い感覚に陥ったが、今回はどうなのだろうか。復興が進んでいるのではないかという期待と、報道をみるかぎり、期待できないという思いが混じりながら気仙沼に向かった。

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気仙沼には、仮設商店街ができていた。被災して店を失い、商店街の復興が進まない中で、プレハブ棟にいくつもの店が集って商売を再開したという。

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学校に隣接している仮設住宅にもいった。月曜日の午前中なので、高齢者や主婦が数人いるだけだった。お年寄りの女性が「私たちは、みなさんにどれだけ感謝してもし足りない」と話していた。2年前に泊まらせてもらった避難所でも、同じ言葉を何度もきいた。2年前も今回も、非常にありがたい言葉をかけていただいたと思ったが、復興が依然として道半ばであることも感じずにはいられなかった。

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気仙沼港の回りは工事がさかんにおこなわれていた。しかし、建物はなくなったままで、更地が目の前に広がっている。市の職員によると、震災で自然体が平均で74センチ地盤沈下したという。被害を繰り返さないように、盛り土をした上で再建をすすめるようだが、かなり時間がかかるだろう。

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2年前、がれきで埋め尽くされた街の中にあった、流された漁船はそのまま残っていた。がれきは片付いたが、なにもない更地のなかに船だけが残っていた。津波被害の象徴として保存するか、それとも撤去するのかで議論が続いているという記事が、ちょうどその日の地元紙に出ていた。

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津波に襲われた市内の高校は、大破したまま残されていた。増築したばかりの高校が津波で大破し、生徒はいま、別の場所に通っているという。グラウンドには大きな焼却施設、クリーンセンターが建っていた。

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気仙沼から隣の南三陸町にいったら、嬉しい再会がまっていた。南三陸町の佐藤町長(写真右)だ。奮闘ぶりはTVでみていた。「なんで2年前はこなかったの.寂しいっちゃ」と笑顔で言われ、笑顔を返したが、2年前は、街がなくなってしまった映像を何度もみせられていて、馴染みの深い街だっただけに、恐くて入れなかった。

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町役場は新しい場所に。

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南三陸にも仮設商店街が、沿岸から離れたとことろにできている。そばには、鉄道代わりを果たしているバス停もできていた。

 

 

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震災前の街の中心部は沿岸にあった。何度も映像や写真でみてきた役場の防災庁舎。かつて何度も訪れた建物だが、骨組みだけになった姿はあまりに小さかった。あたり一面の更地が被害の大きさを物語っている。かつての街は、ない。

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防災庁舎で手を合わせていると、ほかにも何人か、花をもって祈りに来た人がいた。おそらく毎日、多くの人が訪れているのだろう。

復興の道のりはまだまだ長い。2年ぶりにいって、改めて感じる。被災地に、これからも思いをはせていかないといけない。復興はいまもこれからも、日本の最優先課題だ。

 

井出ようせいブログシリーズ 被災地をみて