長野県議会議員選挙 みんなの党の2人 2011 年 3 月 31 日
4月1日から県議会議員選挙が始まる。みんなの党の公認候補は、原田貴司さんと江口光雄さんが、ともに定数10の長野市の選挙区から挑戦する。
1月28日に原田さんが立候補を表明してから2ヶ月間手伝いをしてきた。原田さんはアメリカの大学を卒業し、現地で公認会計士の資格を取ってから長野市で生活してきた。特定の組織を持っているわけではない。2ヶ月間、1日も欠かさず街頭演説をして有権者に政策を訴えてきた。私は早朝、長野駅前などの街頭演説を手伝ってきた。氷点下5度を下回る日も多かった。雪の日も雨の日もあった。チラシを配りながら、原田さんが、寒さで思うように口が動かない場面を何度もみてきた。本戦を前に、やれることはすべてやった。この県議会議員選挙、長野市の候補者の中でもっとも頑張ったのは原田さんだろうと思うし、それは多くの有権者に伝わったと思う。残り10日間、全力で戦って県政への切符を手にしてほしい。「頑張っている人を回りは必ずみている」とよくいうが、組織や特定の地域など目に見える応援団がいなくても、彼の頑張りをみた多くの有権者が彼の応援団になってくれると信じている。
2月28日には江口さんが立候補を表明した。江口さんは、有名な「サンタの創庫」の社長だ。ビジネスで急成長をしている人は、なにかと批判されることも多い。しかし、私は江口さんと会ってから、行動の速さ、そして私のような若い人間の意見でも、「良いと思ったことはなんでもする」姿勢に引き込まれた。国政県政に関わらず、若い人間が政治を志すことを期待する声は多い。私もそうした声に支えられている。それは、何期も連続で議員を務めて歳を重ねてきた現職の仕事ぶりに対する不信の表れであり、年功序列や権威ばかりを振りかざして何もしない政治家に対する不満だ。しかし、江口さんに関しては、まさに「年齢は関係ない」という言葉が当てはまる。それだけの行動力と柔軟な考えを持っている。こうした江口さんの人柄にひかれて、長野県経済を支る多くの企業経営者が応援している。江口さんが県政の舞台に立てば、景気のいい話がない長野県経済を必ず盛り上げてくれると思う。
2ヶ月間、2人を手伝ってきて感じたことがある。当初は2人とも「みんなの党の候補者」として注目されていた。しかし、告示を目前に控えた今、2人はそれぞれのキャラクターで有権者に浸透している。長野市から2人擁立したことは、「党の支持層が割れるのではないか」という不安の声もあったし、私もそう感じたこともある。しかし、原田さんと江口さんはこれまでの準備期間で、それぞれの人間性、持ち味を、これでもかというぐらい訴えてきた。今は、タイプの異なる多才な候補者を擁立できてよかったと思っている。4月10日の夜は何としても2人の笑顔をみたい。私も残り10日全力で2人を手伝いたい。皆様にも今後の2人の戦いぶりに注目してほしい。
何かの予言だったのか 2011 年 3 月 28 日
2月の終わりに、元飯山市長と話す機会があった。
地方・田舎のあり方について自分の想いを話していたら、
元市長は次のように言った。
「飯山もそうだが、日本の田舎は道が整っていると外国人に絶賛される。
国の財政が厳しい今その評価は分かれるが
これは自民党政権時代の成果だ。
しかし、地方は人がどんどんいなくなり、街の機能が低下している。
これまで、いざというときに田舎が人を受け入れる受け皿になってきたが
田舎を守ることは、いざというときのために必要ではないか」
私は戦時中の疎開や、戦後の開拓団と呼ばれる人たちの
話をしているのだと思い、その時はフムフムと聞いていた。
その10日後に大震災が起こった。長野県も被災者の受け入れを始めている。
これから夏に向けて、電力の問題などを考えると
首都圏から長野に一時的に身を寄せる人も増えるかもしれない。
大先輩の言葉は、何かの予言だったのかと思わせるほど深い。
いざ、栄村 ② 2011 年 3 月 27 日
24日の続きから。
私と3人のボランティアが向かったのは、役場から一旦新潟県に入り、再び長野県に戻る集落だ。訪れた家は「斎藤さん」という高齢者夫婦だ。地図でみたら、集落のほとんどの世帯が「斎藤さん」だった。
豪雪地帯にある古い家は、数メートルの雪の重さに耐えられるようしっかりした作りになっている。それでも玄関付近が大きく傾いたり、ずっと使っていた囲炉裏が陥没して使えなくなったと斎藤さんは話していた。24日は終日、斎藤さん宅で、補修に向けて家の回りにある薪の移動や雪かきをした。斎藤さんの家は、風呂を焚くにも薪のボイラーを使っていたが、そのボイラーも壊れてしまった。
私は災害ボランティアは初めての体験で、朝事務局でもらった注意事項に、「依頼者とコミニケーションをとるように」と書いてあったのでこちらから斎藤さんに話しかけた。斎藤さんは、「この集落はみんな名字が斎藤だから、印鑑忘れて役場に行っても大丈夫だ」などと冗談をいっていたが、アスパラと米を作っている農家だという。畑や田んぼは、雪が解けないと地形変化が分からない。今シーズンにむけて、高騰する肥料を農協に手配してしまったから、被害がないことを祈るばかりだと話していた。
被災した住宅のボランティアは、片付けなどの肉体労働がほとんどだ。男手がどうしても必要になるが、女性ボランティアの役割も大きい。25日にお邪魔した女性2人の高齢者住宅では、倒れた箪笥から散らかった衣類を片づける作業があった。こういう仕事を女性ボランティアが、お年寄りの話し相手をしながらしてくれると依頼者も安心する。高齢者だけの住宅だと、被災以前に大きなゴミが出せないなど、普段の生活から苦労していることが多い。ボランティアとはいえ依頼者からすれば、被災してめちゃくちゃになった自宅に第3者を入れるわけだから不安も大きい。
ボランティア事務局に仕事を依頼していながら、ボランティアが現場に行くと「やはりいい」と遠慮する被災者もいる。依頼者とボランティアを調整するボランティア事務局の苦労もよくわかった。早起きしてやる気満々でボランティア事務局にいっても、仕事の調整のために待たされることがある。事務局の苦労を思えば本でも読んで待つのがいい。
ボランティアの人数は少しぐらい多い方がいい。25日に行った家庭では、家族が2週間かけて積み上げた大量の薪が崩れてしまった。薪割り機で割った大きな薪を片づけることは容易ではなかった。最初は、私を含めたボランティア4人で片づけていたが一向に片付かない。しかし夕方になって、他の被災者宅で仕事を終えた数人が応援に入り一気に片付いた。被災した家族の感謝の笑顔が何にも代えがたい報酬だった。
記者時代、私は2002年から08年まで宮城にいた。宮城は当時から地震が多く、仙台市や今回大きな被害がでた南三陸町など、各市町村が毎年防災訓練に力を入れていた。ボランティア団体も訓練に参加していた。今回のように自治体の対応能力を超える被害が出る大震災では、他市町村からの自治体職員の応援が必要だ。それとともにボランティアを組織するボランティア団体も応援、連携が欠かせないと思った。そうしないと初動対応がどうしても遅れてしまう。隣県や周辺市町村、もっというと全国的に震災ボランティア団体が連携しておくことが必要だ。地元のボランティア団体が被災してしまったり、食料や連絡手段がない初動段階にどれだけ動けるかは、普段の備えかかっていると思う。そういう点では全国組織であるJC・日本青年会議所の存在は今回大きかったのではないか。栄村にも県内各JCが応援に入っていたし、人の派遣や物資の運搬などにすぐ対応できる組織はこういうときに強い。JCは普段、酒ばかり飲んでいると批判されることもあるが、やる時はやるのである。
最後に一つだけ。
栄村は、東北地方に比べると被害が小さかったため、報道が少なかった。しかし、多い時は1500人が避難し、今も700人近い人が避難生活をしている。水道の復旧は雪解けを待たないと配管工事ができない。さらに土砂災害の拡大も懸念され、毎日監視が続いている。こうした非常事態が続く中、どうして選挙を予定通りしないといけないのか。雪深い被災地に立てられた選挙ポスター掲示板をみて、全国的な選挙延期を英断できなかった今の政治に憤りを感じた。
今後も栄村、そして東北地方にボランティアにはいれないかなど、自分にできることを考えたい。
広がる活動2 2011 年 3 月 24 日
先日、「広がる活動」という投稿に以下のコメントをいただいたので
改めて紹介させていただきます。
「内山昇一 より:
被災地の受験生の受け入れを考えています。2~3人は大丈夫です。家をなくした等で来年大学受験を諦めかけている将来ある高校生を受け入れたいです。」
お気持ち大変ありがたく思います。
私の方ですぐにつなげることができないのですが、
せっかくのご提案、なんとかいかしたいと思います。
いざ、栄村 ① 2011 年 3 月 24 日
24日、栄村に震災復興ボランティアに行ってきた。
午前8時過ぎ、たくさんの避難者と、ボランティア、
そして朝のミーティングを済ませた全職員がすでに動き出していた。
役場の総務課に義援金を届けに行ったら
島田村長が対応してくれた。
募金をしてくれた人に「義援金を確かに届けました」と伝えることができるようにと、
職員の人が写真を撮ってくれた。
多くの方に短時間で協力いただいた10万円、確かに届けました。
島田村長は、住宅が壊れた人の支援にあてたいと話していた。
村長の話だと、大きな課題は2つあるという。
1つは雪が深く上下水道の被害調査、復旧工事のめどがたたないこと。
もう1つは雪が解けた後に新たな地形変化が見つかる恐れがある。
特に土砂崩れがあった場所がさらに崩れる可能性があり、
周辺住民の避難指示を解除できないという。
村長は地震の後、ずっと村長室に寝泊りをしているという。
避難者は当初の1500人から半数以下に減り、
「だいぶ落ち着いた」とはいっていたものの、
疲労とこの先への不安が感じられた。
村長室をあとにした私がむかったボランティアセンターは、
役場の2階、村議会の議場だった。
(「いざ、栄村 ②」に続く)