怖れ   2011 年 3 月 12 日

私は、NHKの記者をしていた間、2002年から2008年まで仙台に勤務していた。警察や県庁関係者など、およそ300人と年賀状をやりとりしていた。テレビで、知り合いが住んでいる地域の被害が次々に伝えられている。被害の全容を知ることが怖い。宮城県の知り合いで連絡がとれたのは、被害の少なかった県南の山間部にいる1人だけだ。被害の大きなところにいる知り合いは、電話が通じないこともあるが、もしものことを考えると怖くて電話ができない。

「できることはないか」という想いばかりが募る。

できることはなにか   2011 年 3 月 12 日

(3月12日信濃毎日新聞より)

 

2011年3月11日午後2時46分。

その後時間が止まったかのように他のことが手につかない。

ずっとテレビを観ている。観測史上最大だという。

私が体験した平成20年6月14日の岩手宮城内陸地震を

はるかに超える被害映像が延々と流れている。

今は被害の大きい宮城、岩手、福島の沿岸部や

仙台市中心部の映像が集まっているが、

震度7を記録した宮城県栗原市など

山間部の被害も相当なものだろう。

知り合いの家がある街、取材で何度も通った街、

プライベートで訪れた街が水没してなくなった。

無事が確認できた人がまだ1人しかいない。

長野県の夜中の地震も栄村など、避難をしている人が多いようだ。

人的被害の報道がないのが救いだ。

 

水、食糧、防寒具、トイレ、暖房など、足りないものだらけだろう。

平成20年の地震で私が、もっとも被害が大きかった山間部にはいった時も

水、電気、ガスは止まっていた。自衛隊、消防、警察の捜索隊とともに

崩れかけた宿泊施設で夜露をしのいだ。トイレはなかった。

大きな余震がきたときは「これでおしまいか」と思った。

自分たちでもっていった食糧で一番重宝したのは飴だった。

飴なら水もトイレも気にならなかった。

「できることはなにか」と考えながら

当面の予定をキャンセルして情報を集めている。

井出ようせいブログシリーズ 被災地をみて