みんなの、党だ   2011 年 12 月 23 日

大阪市長選と知事選後、

橋下新市長の存在が国会でも目玉になっている。

各政党が選挙後、橋下市長に喝采を送っている。

 

選挙前から橋下氏を応援したのは、みんなの党だけだ。

みんなの党は橋下市長が掲げる大阪都構想を

地方分権推進の先駆けになると支持し

公務員改革、教育改革にも賛同している。

 

私自身は、

橋下氏の教育改革は全面的に賛成しているわけではないが、

大阪のダブル選挙ではっきりしたことは、

今のままではだめだということを変えようとするのが

橋下氏であり、みんなの党。

今のままでいいんだよというのが

そのほかの政党ということだ。

この区別がいっそう明確になったのはありがたい。

「みんなの党、いいね」といってくれる人が

格段に多くなった。

 

みんなの党は、

議員や公務員の歳費カット、

地域主権、脱原発など

よりよい社会をのぞむ人たち

みんなの、党になってきた。

 

これまで栃木、神奈川など

限られた地域で元気だったが

今回、大阪に伝播した。

 

少数政党だから引き続き前途多難だが

良いことはいい、ダメなことはダメと一貫性をもって

地道に活動してきたことが

評価につながっている。

 

きのうまでのチラシ17681枚。

 

「なんでもかんでも批判ばかりして」

 

「足の引っ張り合いばかりしている」

 

「面白ければいいってもんじゃない」

 

日々様々な人たちと会っていると、年代性別に関係なく、多くの人から言われる言葉である。「政治家とマスコミが批判ばかりしているから、世の中がさっぱり良くならない」と、多くの人が感じている。

 

私が批判ということについて、ちょっとした違和感を感じたのは高校生の時だった。「毒舌」という言葉がありそれを持ち味にしている著名人は今も多いが、20年近く前に私は毒舌という言葉を覚えた。その後、毒舌とは時代の流行りなのではないかという思いを強めるようになった。その背景の1つにインターネットの普及がある。インターネットは私が大学に入ったころから、携帯電話とともに飛躍的な広がりをみせ、2ちゃんねるや、様々な掲示板が登場した。特に学校の裏サイトといって、いじめの温床になりかねないようなサイトがニュースに出た時には衝撃をうけた。記者をしていた私にとって、インターネットは情報収集の貴重なツールだったが、プライベートでは積極的に使わなかった。誰でも簡単に世の中に発信ができるので、不満やストレスのはけ口になっているのではないかという思いが消えなかったからだ。この10年、20年近くの間に批判の質が悪くなったのではないか。誰でも瞬時になんでも言えるようになった分、シニカルで面白いことを即座に言うのがカッコいいと思われる時代なのかと思うようになった。毒舌と言う言葉は、「建設的な批判」という意味よりも「面白い批判」という印象をうける。

これまでは時代の流れなのかと許容してきたが、最近私は、毒舌と明確な一線を引こうとしている。私は去年の選挙をきっかけに、この1年半余りでインターネットへの向き合い方が大きく変わった。自分にとって必要なことを得るためにインターネットをより積極的に使うようになったし、自ら発信するようになった。そうすることで多くの人とのつながりを得た。こうして広がった新しい世界には、単にシニカルというだけではなく、前向きで、夢や目標を持つ人が多くいた。いままで目をむけてこなかった世界に目をむけたら、前向きで建設的な人たたくさんいることに気づいた。そして、なによりも、自分自身が前向きになっている。日々の生活が大変でも、やりたいことをやろうと、もがいているからだ。

そして世の中の風潮も少しずつ変わってきているのではないかと感じている。3月の大震災で多くの人が、「できることならなんでもしよう」という気持ちになった。インターネット上に飛び交う言葉に真剣味が出てきた。震災の傷跡はまだ相当深いが、「前向きに、建設的に向きあっていかなくてはならない」ということを教わった気がする。

 

政治家とメディアは、批判をすることが仕事の一部でもある。公共の利益のため、よりよい社会のために必要な批判をしなければいけない立場にいる。いま政治家は、広く支持を得ようとするあまり、「毒舌家」が多くなっていないだろうか。受けや笑いをとればいいってもんじゃない。批判が仕事の一部であるといったが、その後をどうするのか。建設的で前向きな考えを持っていなければいけない。メディアはどうか。多くの人が様々な情報に触れることができるようになった時代にまだ対応しきれていない気がするし、いろんな問題を抱えている。しかし、両者に共通するのは、多くの人に受けようとするあまり、毒舌の時代に流されてきたのではないかという疑問である。

 批判するべき人たちの批判が、なぜいま批判にさらされているのか。時代を先導するべき政治家やメディアが国民の顔色ばかりをうかがって自論を喪失していないか。かつてメディアに身を置き、いま政治に挑む私にとって、批判する責務を負っている政治家とメディアが批判にさらされているということは大きな問題であり、真剣に考えたいと思っている。

(--〆)   2011 年 12 月 12 日

タイトルの顔文字は「苦々しい顔」のつもりである。

2人の大臣の問責が先日可決された。

 防衛大臣についていえば、

少女暴行事件についての答弁は、

私もがっかりした。

事件があった当時私は高校生だった。

「少女暴行事件」と聞けば

沖縄の事件が今でもすぐに浮かぶぐらい、

当時の衝撃が頭に刻まれている。

事件の概要を事細かに語れというつもりは全くない。

ただ、世の中に与えた影響の大きさだけは触れて欲しかった。

消費者相についていえば、

私はもともと不適格ではないかと思っている。

 

民主党は人材が不足している。

輿石幹事長が2人について

「辞任の必要はない。その理由はない」と

会見で語っていた映像をみると

開き直って擁護するしかないのだなと感じる。

閣僚を党内の序列で決め、

新しい人材を抜擢しようという空気も感じられない。

 

自民党小泉政権のあと、

政治はずっと同じようなことを繰り返している。

与党の代表選→組閣→総理や閣僚の失言→野党の審議拒否→支持率の低下→

大連立の噂→内閣改造→与党の代表選→組閣→(以下同文)

国民的人気を買われて総理になり、

選挙に勝つことを目的とされたのは

自民党安倍内閣だった。

しかし参院選に惨敗し、体調不良から総理を辞めた。

福田政権がつないだあとの麻生総理も

人気が期待されたが解散に踏み切れず、

任期満了ぎりぎりで切羽詰まって解散する始末だった。

 

民主党でも同じことが続いている。

菅総理も選挙で勝つことを期待された。

しかし参院選で惨敗。

その後も居座り続けたことだけが

安倍総理との違いだった。

 

さて、野田総理はどうなるか。

野党との話し合いを重視する姿勢はこれからも続けるだろう。

それはかつて、

安倍総理と麻生総理をつないだ福田総理の姿に重なる。

野田総理は、

最低でも来年9月までは持ちこたえようと頑張るだろう。

代表選挙で民主党がどういう選択をするのか分からないが、

来年9月になれば

「選挙に勝てる新しい代表を」という声が当然でるだろう。

 しかし、そういう人材も、もういない。

重鎮で残っているのは前原氏ぐらいだが、

先の代表選で党内外から評価を下げてしまった。

 

民主党も自民党も

誰のため、何のためになるのかが

まったく見えない政局に終始している。

 

 

「ねじれ国会が悪い」という国会議員もいるが、

ねじれ国会を生みだすのは選挙であり

国民のその時々の選択である。

自民党だろうと民主党だろうと、

その時の政権に不安だから

選挙のたびに消去法で大きな野党を支持する。

ねじれ国会とは政治不信の現れであり、

民主党と自民党は、

ねじれを嘆く前に反省するべきだろう。

2大政党のていたらくがねじれを生んでいる。

 

政治の悪循環は一体いつまで続くのか。

その間に増税や、年金支払い時期の延期など

国民の困ることばかりすすめられようとしている。

次の選挙で

消去法ではなく、はっきりNOを突きつけることが

政治を変える残された唯一の方法だ。

 

臨時国会が閉会する日の

最大のニュースが2大臣の問責だったことは

とても残念で、歯がゆい。

簡単には治らない「緩み」   2011 年 12 月 8 日

野党にはニュースバリューがないということかもしれないが、

自民党が、衆議院所管の土地を、議員駐車場としてタダで使っていた問題は

「ふーん」と聞き流せるような問題ではない。

 

「国有地は約1320平方メートルで、

本来年3500万円程度の賃料が必要とされる」という。

長年政権政党にいたがゆえ、

衆議院となあなあの関係になって無償で使ってきたのだろう。

使い始める時に自民党が毅然とけじめをつけるべきだった。

万年与党の「緩み」を如実に物語っている。

 

そして、さらに耳を疑ったのは、

石原幹事長が11月1日の記者会見で

「衆院側が使用を認めている。問題ない」と話したことだ。

これまでの経緯を反省し、無償利用を即時中止するのが筋ではないか。

問題が発覚してもなお開き直るところに、

「緩み」の根深さを感じる。

 

野党に転落して2年余り。

一から出直していれば

迷走する民主党に対してもっと優位に立てたはずだ。

しみついてしまった「緩み」は簡単には治らないようだ。

 

自民党も、土地を所管する衆議院も、早く決着をつけてほしい。

小さなニュースでも

自民党にとって大きな問題だと思って注視している。

 

(参考:12月5日読売新聞)

 今朝の信濃毎日新聞11ページに「『自民党 野党転落で赤字』10年までの借入金残高は101億円と政治団体の中で突出して多く、苦しい資金繰りを強いられている」という記事が出ていた。同じページには「『献金 不況で過去最低』政治献金は151億円で過去最低。ピーク時の1998年より698億円減少」という記事もあった。政治献金の減少は不況だけでなく、政治不信も理由の一つだろう。また、企業と政治家の関係に厳しい目が向けられ、企業献金が少なくなっていることもあげられる。

 

 これだけ既成政党の収入が少なくなっているのなら、選挙や政治活動も「仕分け」をしたらどうか。収入が減れば支出を見直すことは当たり前だ。「政治には金がかかる」という言葉は誰もがいうことであり、私も否定しない。しかし古い政治の常識である大盤振る舞いの政治活動・選挙のつけが、自民党の101億円の借入金残高に象徴されている。自らの収支も改善できないようでは、国の財政再建を任せる気にはなれない。

 

 さて、企業献金が癒着につながるという批判もあって、政党交付金(広く国民から集めた税金)が各政党に配分され、活動源となっている。信濃毎日新聞で日本大学政治部の岩井奉信教授は「政治献金が大幅に減少した分、各党の政党交付金依存度は高まっている。いまや、民主、自民の2大政党は『国営政党』と化しているといっても過言ではない。国民から広く薄く浄財を集めるという政治資金本来の姿からすると、過度の政党交付金依存は必ずしも健全とは言いがたい」と指摘している。その通りだと思う。

 

 私の政党支部に党本部から去年振り込まれたお金は、数日前、信濃毎日新聞に掲載されたように950万円でその原資は政党交付金だ。そのうち500万円は選挙で使った。あとの450万円はまだ大半が残っている。交付金は、私のようにお金のない人間が政治に挑戦するには大変ありがたい。しかし、岩井教授がいうことと関連して政治家個人から見た場合、交付金への依存度が高まれば政治家が政党に埋没する恐れがある。悪い意味で政治家が政党の「サラリーマン化」することが懸念される。そんな気持ちもあって政治活動にかかるお金は最小限に抑えようと思っている。

 

 「政治には金がかかる」ことは残念ながら事実であり、政党交付金がすべてを解決する訳でもない。だから私は、政治献金は自由であるべきだと思う。企業からでも個人からでも、政治家の判断で自由に受け取ればいい。ただし自由であるからには、献金について厳しい線引き・けじめを政治家自らがつけなければいけない。そして、自ら収入を制約するためには、最初「仕分け」と表現したが、支出を抑えないといけない。こうやって考えると、お金をかけない政治活動・選挙をすることは「特定の人間関係に傾かない」、「発言の自由を保つ」、すなわち政治家の資質に関わる非常に重要なことだと確信している。

井出ようせいブログシリーズ 被災地をみて