仙台市中心部にNPO団体が作った、被災地に物資を届ける拠点。

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ここは震災前、みんなの党から宮城県議会と仙台市議会に立候補する人の選挙事務所だったという。

震災後、NPOが物資の収集・輸送拠点を探していることを知り、事務所を閉鎖してスペースを提供したという。

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ここでは、避難所への物資提供ではなく、

住宅の2階部分で生活している被災者などの小さなニーズに応える活動をしている。

口コミや、被災地でチラシを配ったり、メールやFAX、電話などで必要な物資の依頼を受けている。

そして全国に物資募集をかけて、集まり次第届ける仕組みだ。

物資の運搬は重いものもあるから人手がいる。しかし連休が終わってボランティアが減っているという。

また、震災から2カ月がたったこともあって、物資募集をかけても集まりが悪くなってきているという。

それでも、「どこの地域で、こういう事情で、こういうものが、どれだけ必要だ」と具体的に募集を出せば

物資を提供してくれる人がいると話していた。

話をしてくれた女性ボランティアは偶然、長野県出身だった。

この活動がいつまで続くか分からないが、「最低でもあと半年ぐらいは必要なんじゃないか」と話していた。

こうした活動が継続できるように、多くの人が関心をもって、長い目で物資を提供したりボランティアに参加することが必要だ。

再会~被災地をみて10~   2011 年 5 月 26 日

5月15日から19日までいた宮城県では多くの人と再会した。

 

自宅が大きな被害を受けたにも関わらず、ほとんど休みなく働く警察官。

震災直後、コメどころの実家から米を持ってきて

被災地に向かう署員の炊き出しに使ったという。

震災から2カ月がすぎてようやく自宅の片づけを始めたところだった。

 

 

タ取材でお世話になったタクシー運転手には街中で偶然再会した。

彼の実家は気仙沼で、母親が津波に流されたが奇跡的に助かり

仙台の自宅アパートによんで療養させていると話していた。

野球好きの小学生の息子がいたが、もう高校生だという。

 

 

仙台市のビジネスホテルは全国からのボランティア、自治体、

企業の支援者で毎晩どこもいっぱいだった。

最後の夜はNHK時代もっともお世話になった人の家に泊めてもらった。

その人の自宅は津波を受ける場所ではなかったが、

家の土台などにかなりの被害が出たという。

それでも昔と変わらず家族全員で歓迎してくれた。

私がカレーライスが好きだったことを覚えていてくれて

朝食にカレーを作ってくれた。

当時のままの大盛りカレーは食べ応えがあったが

その気持ちがなによりもありがたく、嬉しかった。

 

 

宮城県知事とも再会した。

 

 

 

 

 

 

村井 嘉浩(むらい よしひろ)宮城県知事は

私が仙台で記者をしていたときに3年間取材した。

私がNHKを辞めたことも落選したことも知る、気配りの人だ。

村井知事は

「こっちは大丈夫だから自分のことを長野で一生懸命やりなさい」と

励ましてくれた。

 

 

世のため人のためになりたいといつも思っているし

そういうつもりで被災地に行ったが、

たくさんの人に支えられていること改めて痛感する機会になった。

私がボランティアにいった岩手県大槌町は

町長が津波で流され、その後遺体で見つかったことが大きなニュースになった町だ。

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被災した役場にかわって作られたプレハブ棟の役場で私は「地域整備課」を手伝った。

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地域整備課は、元々いた職員の多くが亡くなったり行方が分からなくなってしまったという。一命を取りとめて不休で働く職員。風呂にも入れない日が続いていると話していた。また、被災した職員にかわって他の部署から配属された職員も、仮設住宅の建設やがれきの撤去にむけて必死で働いていた。仮設住宅は一刻の猶予も許されない。また、がれきは大槌町だけで手に負える量では到底ない。しかし町ががれきの処理を進めないと、訳のわからない業者が、車などを勝手に持ち出そうとして、職員はその対応にも追われていた。休みなく働く職員の姿は、今ブログを書きながら思いだしても目頭が熱くなる。

 

5月23日信濃毎日新聞朝刊(25ページ)に、大槌町は副町長の任期も6月で切れるという記事があった。被災地は選挙をできる状況ではないというのは全国的に異論のない意見であり、実際、統一地方選(4月)は東北の多くの被災地で延期された。大槌町については、1日も早く町長選挙をして欲しいと思っている。リーダが不在の中で懸命に働く職員。職員の声を尊重してバックアップする上司。みんな目の前のやるべきことをやっている。しかし大黒柱がいない。未来が見通せずにいる。

役場でボランティアをしたとき、私が電話をかけたある女性の被災者がいた。その女性は、仮設住宅の申し込みが大槌町より早く始まった隣町の釜石市に申し込みをしていた。大槌町で仮設住宅提供のメドがたったことを伝えると、

「私たち、希望をもっていいんですか!」と電話のむこうの声が急に大きくなった。

希望を持ちたいという願いがその声には込められていた。

不安ばかりの町の人たち、そして目の前の仕事に必死で取り組む役場の人たちの支えが必要だ。希望の星となる新しいリーダーを早く決めて欲しい。今の状況で選挙をすることは大変だと思う。でも、希望の光を町民みんなで生みだして欲しい。わずかな時間だったが大槌町でボランティアをした1人として、大槌町の希望が拓けるニュースを心待ちにしている。

 

 

5月23日信濃毎日新聞朝刊(25ページ)に、「塩害の水田、復興見えず」という記事があった。宮城県内だけで約1万haの水田が津波を受けたという。

宮城県は、栗原市や登米市などにかかる大崎平野と呼ばれる米どころが内陸にある。また、仙台市南部から名取市、亘理市、福島県境の山元町に至るまで、沿岸部は雄大な水田が広がっている。仙台から気仙沼に向かう途中、東北自動車道から見た大崎平野は田植えが始まっていた。

しかし、仙台市以南の沿岸部の水田は田植えができず、がれきが一面に広がっている。

さらに水田をよくみると津波で砂やヘドロが大量に積もっていたり、大規模な地盤沈下がみられるなど様々な被害が出ている。

がれきが広がっている水田には、行方不明者の捜索をした痕はみられた。しかしがれきの除去や塩害対策は後回しという感じだった。とてもじゃないが手が回らないという人もいた。また、「山元町の沿岸部がどうして手づかずなのか」とある記者にきいたら、「大きな余震が来たときに近くに高台などがないため、立ち入りが制限されているのではないか」という話をしてくれた。

この秋に米が不足するのではないかというような話をする気にはまだなれない。しかし、仙台以南の沿岸部は、みたことのある人は分かると思うが大規模営農をしている農家が多い。そうした人たちが生活の糧を失い、被害もそのままになっていることを改めて訴えたい。

5月17日、宮城県気仙沼市でマグロとカツオの専門店をしている社長に会った。

岩手県と宮城県の沖合には、南からの黒潮と北からの親潮がぶつかる、世界でも有数といわれる漁場がある。プランクトンが豊富でいい魚がとれると、たしか小学校のころ習った。気仙沼は、こうした世界有数の漁場に恵まれた日本を代表する漁港だ。有名なのはふかひれだが、マグロやカツオ、そしてサンマなどが本当に美味い。私が今まで食べた寿司で一番おいしいと思ったのは気仙沼の寿司屋だった。また戻りガツオや、サンマの塩焼きがびっくりするほどおいしかったのも気仙沼だった。私は仙台から横浜に転勤してからあまり魚を食べなくなった。魚の本当の美味さを教わったのが気仙沼だった。

さて、気仙沼で会った社長は、被災した魚市場から離れた場所に小さな店を開いて、マグロの販売を再開していた。

私が行った5月17日も店は地元の人でにぎわっていた。地元の人は「気仙沼の人はやはり魚がないとダメなんだ」と話していて、私は素直にうなずいていた。しかし、そんな前向きな社長がお昼を食べているときにぽつりと言った。

「今度また津波がきたら、こんどはのまれてしまおうかと思う」

隣にいた人が

「そういうこと言う人に限って大丈夫だから」と笑って慰める。

すると社長がまた言った。

「じゃあ目の前の川に入ってしまおうかと思う。それぐらい希望がないんだ」

店もない。冷蔵庫もない。魚市場も港もなくなり、入港する船もなくなった。

初夏にはカツオのシーズンに入るが、カツオが来ても売りさばける状態ではないと、初夏のカツオはあきらめるという。

私は「秋の戻りガツオまでになんとかなるといいですね」と言ってみた。

社長は頷いたが、すぐに

「夏になると南からの黒潮の流れが強くなるから、福島の原発の影響が心配だ。

調べてダメだったら完全に終わりだ」と言った。

 

漁業者の人たちは今必死に商売を立て直そうとしているし、先のことも考えている。それでも希望は全く見えないという。社長は、原発事故について報道される情報が日々変わることや、漁業の復興に国が将来像を示してくれないことを嘆いていた。

頑張ろうと言われなくても頑張っている。震災から立ち直ろうと必死な人たちが本当に欲しているのは希望と具体的な情報だ。

 

井出ようせいブログシリーズ 被災地をみて